ー相手の反応の”余白”が怖かった話ー
なにげない質問をされて、
なぜか困ってしまったことはありませんか?
例えば、
「美容代って、月どれくらい使う?」
そんなふうに聞かれたとき。
たぶん相手は、
ただの雑談として聞いているだけ。
でも私は、 一瞬で頭がフル回転する。
何て答えるのが無難?
浮かない答えは?
本音で言って大丈夫?
そして答えたあとも、どこか落ち着かない。
さっきの返答、大丈夫だったかな。
変に思われてないかな。
答えがない話なのに、
なぜか正解を探してしまう。
昔から、 こういう質問が少し苦手でした。
自分の考えや価値観まで
見られているような
気がしてしまうのです。
前回、
私は会話が苦手なのではなく、
言葉を重く持ちすぎていたのかもしれない
という話を書きました。
そのあと、さらに見つめ直してみると。
私が特に苦手なのは
会話そのものではなく、
「正解がない質問をされる場面」
なのだと思いました。
私は質問に答えることを、
ただの情報交換として
受け取れていなかったようです。
「美容代ってどれくらい?」
こんな些細な問いかけも、
ただ金額を聞かれているだけではなくて。
お金の使い方。
何に価値を感じるか。
自分をどれくらい優先するか。
そこには、
自分の価値観を少し差し出すような
感覚があったのです。
そして、もっと怖かったのは
質問されたことよりも、
答えたあとの相手の”反応”でした。
「へぇ、そうなんだ〜」
たったそれだけの言葉でも、
私はその裏にある意味を
探しはじめてしまいます。
肯定だったのか。
驚きだったのか。
少し意外だったのか。
それとも、
少し引かれていたのか。
相手は、 ただ返事をしただけかもしれません。
でも私は、
その言葉にある“余白”を
埋めようとしてしまうのです。
そもそも。
なぜ私は、
その余白を
埋めたくなってしまうんだろう。
相手が何を思ったのか、
本当のところはわからない。
それなのに私は、
ついその一言に意味を探してしまう。
そして気づけば、
少しネガティブな解釈に傾いてしまって。
そこには、
私なりの思考のクセが
あるような気がしています。
振り返ってみると
私は、昔から
価値観の違いが生まれる場面に
強い緊張を感じていました。
違う意見そのものが
嫌だったわけではありません。
もちろん、
世の中には、いろいろな人がいて
いろいろな考えがあることもわかっています。
仲が良い友人の中にも
ここは少し考え方が違うな
と思うこともあります。
それでも、私は
違いが見えた瞬間、どこか身構えてしまう。
どうしてなんだろう。
そう考えたとき、
少しだけ思い当たる節がありました。
私の父は、俗に言う”亭主関白”なタイプ。
昔から、自分の考えを
はっきりと言葉にする人でした。
なかには、
何気ない一言もあったのかもしれません。
きっと本人は提案しているだけ。
でも、その言葉の語尾が、
命令口調のときもたくさんあって。
私には、 いつも少し重く感じられました。
そこにある価値観を
そのまま受け取るよう、
求められている気がして
息苦しかったことを覚えています。
こちらが違う意見を持っていたとき
議論はなかなか終わりません。
それを伝えた瞬間、空気が変わる。
言葉を返しても、また返ってくる。
一歩も引かない相手に向かって、
こちらだけが
少しずつ体力を失っていく。
話し合いというより、
消耗戦に近いような感覚でした。
そんな経験が積み重なるうちに。
私は無意識のうちに、
価値観の違いが生まれることを
少し怖いものとして
捉えるようになったのかもしれません。
違う意見を持つこと。
違う答えを口にすること。
それ自体が悪いわけではない。
頭では、 そうわかっているつもりです。
でも私の中では、 「違い」が生まれた瞬間、
相手はどう感じただろう。
どんな反応が返ってくるだろう。
そんなふうに、
その先にある反応まで
身構えてしまうのです。
受け入れてくれるのか。
否定されるのか。
また押し返されるのか。
その答えがわからないまま
相手の反応を待つ“余白”が、
怖かったのかもしれません。
きっとこれからも、
私はときどき
相手の言葉の裏を読みたくなると思います。
でも、そのたびに思い出したい。
相手の沈黙も、
曖昧な相槌も、
全部に答えがあるとは限らない。
だからこそ、
余白があってもいいのかもしれません。
違っていてもいい。
わからないまま、そこに置いておいてもいい。
そう思えたら、 少しずつ。
会話の中で感じる緊張も、
やわらいでいくのかもしれません。
今日はここでおしまいです。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
